2021-03-16 第204回国会 参議院 農林水産委員会 第2号
ふるさと富山県の出身議員の農林水産大臣の就任は、戦後農地改革を手掛けました松村謙三さんが初めてでありまして、野上大臣は二人目の農林水産大臣ということでありまして、県民の期待はもちろん、全国から大変な期待があるわけであります。 大臣より、先日、当農林水産委員会で所信を述べていただきました。改めて大臣の決意のほどをいただきたいと存じます。
ふるさと富山県の出身議員の農林水産大臣の就任は、戦後農地改革を手掛けました松村謙三さんが初めてでありまして、野上大臣は二人目の農林水産大臣ということでありまして、県民の期待はもちろん、全国から大変な期待があるわけであります。 大臣より、先日、当農林水産委員会で所信を述べていただきました。改めて大臣の決意のほどをいただきたいと存じます。
野上大臣におかれましては、終戦直後の食料危機や農地改革という難局の中で国政に御尽力された松村謙三農林大臣以来、七十五年ぶりの富山県出身の農林水産大臣となります。富山県人として大変うれしく、また同僚議員として誇りに思います。御活躍を期待しています。
石橋湛山先生、河野一郎先生、松村謙三先生、三木武夫先生、こういう方々が日米安保条約の採決のときでさえも棄権や欠席をされております。 そこで、最後に外務大臣にお尋ねしますが、この戦後政治における宏池会の果たしてきた、いろいろな外交的な岐路がありましたが、その意義、そして、今回の法案、本当にこれでいいと思いますか。責任ある立場にいらっしゃる大臣のお考えをお聞かせください。
終戦直後の農地解放、郷里の大先輩、松村謙三先生が農林大臣として取り組まれました。我が国は、農地解放により、地主、小作関係を解消し、自作農をつくることで民主国家としての歩みを始めました。しかし、その後、農地の所有者が農村を離れたり、高齢化や後継者がいないことで農地をほかの農家に預けるケースがふえてまいりました。
自民党の皆さんも大変な御努力をされていまして、高碕達之助先生や松村謙三先生を初めとして、さまざまな方々が大変な御努力をされていたわけであります。 そういう意味では、この半世紀の平和と友好の関係また経済繁栄におきましても、経済的な部分でも、松下政経塾の創立者の松下幸之助先生が中国に工場進出をされて向こうにも大変な貢献をされたという歴史もありますし、非常に今の事態を残念に思っております。
その前には松村謙三さんもいろいろな活躍をされていました。そういうつながりの中で、あの世界青少年交流協会の活動というのは非常に意義のある、価値のあるものであったと私思います。今は、いろいろな不正があって、解散したのかどうかは知りませんが、なくなっております。 民間的な外交、これはどういうふうにお考えになるか。あれはたしか文科省でありましたが、外務省としてどういうふうにお考えになるか。どうですか。
高碕達之助さんあるいは松村謙三さん、大先達、また我が党も大きな貢献ができたというふうに自負をしているところでございますが、残念ながらこの式典の前の日に例の瀋陽問題起きてしまったわけであります。
それから、おっしゃるように、政官業の癒着をどういうふうに断ち切るかというのは、私は今まで、官僚でそれなりの頑張ってきた官僚、あるいは保守の政治家の中でも石橋湛山とか松村謙三とか、それなりの良識を発揮してきた人の伝記を書いたりしてきたんですけれども、そのそれぞれの場でそれぞれが頑張ってそういうものをなくするということでなければならないんだろうと思うんですね。
農地改革に関して言えば、松村謙三さんという富山県選出の代議士が中心になって、和田博雄さんたちと一緒になって農地改革を進めていく。教育改革も同じですね。土着化と国際化という二つの流れが競合し合って新しい国の形をつくり上げていく。これが今日の戦後日本の繁栄を生み出したというふうに申し上げていいと思います。
これは、松村謙三先生がせっかく一握りの地主から小作人農業を解放してやったのに、その後の我々の農業政策は、日本が財政的に豊かになるに従ってこの松村謙三先生がねらいとしておった農業とは別方向に行ったのじゃなかろうかというふうに私は率直に検証、反省をしなければならぬと考えておるわけであります。 例えば、ロッチデールの精神というのは協同組合の精神ですが、我々のときは組合員が主人公であったのですよ。
当時、保守合同に全精力をつぎ込んでおりました三木武吉先生が、夜陰に紛れて松村謙三先生の中野の鷺宮のお宅に訪れられた。何事かと思って松村先生が応接に出ると、自分は絶対に保守合同をしなければならない、そういう確信に基づいて動いておるんだが、ぜひ君にも同調してほしい、そういうお話であった。
私は、今の話の中で、西尾末広先生の話を聞くときに、松村謙三先生が保守二党が将来の方向であると言われたことと、また、今問題になっておる戦後自民党が曲がりなりにも政権をとってきた中に、我が国に他に国民政党がなかった、結局これを制度によってつくり上げなければいかぬということも感じます。しかし、それは長くなりますから、これ以上申し上げません。
そのときに松村謙三さんが、もし保守合同をして行き詰まったときに、社会主義を標権する政党に政権を渡すのかと。大変なことですよね。そうしたら、その保守合同が行き詰まったときに日本の運命を託する、そういう政権を担当する能力のある政党がいてくれれば国民もハッピーなんです。しかし今、自民党がドーンと天井に突き当たって、どんどんと今もう急降下でおりている。そのときに、託したいけれども見渡したら全くない。
私は尊敬している松村謙三先生とか尾崎行雄先生とか、そして最近私が見ておりました本の中に吉田元首相のお書きになったのがあるのですが、その一文の中に、高知でございますから、向こうの商工会議所の会頭である西山さんが書かれているのです。「私に投票したのは高知県民だが、当選の瞬間から国会議員です。県内の問題は、知事や県会議員の仕事です。」と吉田さんはずっと言われた。
私は松村謙三先生から「自分の生きている中には日中国交回復は難しい。君は若いからお国の為に私の志を継いでもらいたい。」と若輩の私に威儀を正されてのお話がありました。 其後一九七一年訪中の時に、周恩来総理から「……日本国民は敗戦で大被害をうけた。中国は日本に対し一円の賠償も要求しません。ただ望むらくは子々孫々に至る中日の友好親善だけである……。」
政治家の皆さんにも、松村謙三さん、正力松太郎さんといったような方々、質実で積極、真摯な方々を輩出しているのも、これは一つはこういう教育風土の生み出したものではないかというふうに思っております。
日本と中国の友好関係というのは、お互いの政府が承認し合って平和条約を結んだとかそれだけではないんだ、そのずっと前からお互いの人たちが友好のために、親善のために交流を行ってきた、具体的に片山哲先生だとか石橋湛山先生だとか松村謙三先生とか名前を挙げられて、こういうたくさんの人たちが交流をし合いながら友好のためにお互いに努力をしてきた、また、各団体や各政党もそうなんだ、だからそういうものの上に立って今日の
私はこういうことをちょっと思い出すのですが、昭和三十年に松村謙三先生が文部大臣をやっていらっしゃった、私は全国の青年団の会長をやっていた関係で、青年大会等でよくお尋ねをしたことがあるのですが、当時、松村先生は、一つは、毛沢東や周恩来という中国の日本を知る人がおる間に平和条約をやらないと、反日教育を本当にやったらえらいことになる、だから急げ、こういう論理が一つですね。
○辻(一)委員 これはちょっと前の体験ですが、松村謙三先生が文部大臣を昭和三十年ごろにやっていらっしゃって、私も青年団の全国の会長時代に何回もお目にかかったんです。富山県の出身なので、米騒動の出発点、歴史がありますね。そこで、松村先生は中国と米の問題について非常に識見を持っておられましたが、今電話一本かければいつでも米屋さんが米を運んでくれる。
初当選から十数年間は、恩師松村謙三先生の指導のもとに日中国交正常化の実現に政治生命をかけ、きびしい環境の中で、努力してきました。ために国会での地方行政や社会労働、科学技術などの担当委員会で、果たして十分に自分の職責を全うできたかどうか、心もとない気がしています。 ただ現在の日中両国の友好関係をみますと私たちの努力が多少とも役に立ったのではないかと、ほのかな自負を抱いています。
私の恩師に松村謙三先生がおられましたが、松村先生は戦前において米穀統制法そのほかを手がけた方でございます。戦前におきまして米が過剰になった、あるいは少なくなった、その需給操作を当時の台湾米あるいは当時の朝鮮米を入れてやった。